【工場編】ビスポークテーラー奮闘記⑮
バブル崩壊、そして中国へ… 工場を襲った試練
ナポリでの修行を終えて日本に戻った荒川が、次に足を踏み入れたのは縫製工場「株式会社ハセガワ」でした。
以前から荒川の技術力と経歴に注目してくださっていた、同じ業界の社長さんがいました。イタリア修行を終えて日本に帰国したタイミングで、その社長がハセガワを紹介してくれたことがきっかけで、荒川はこの工場で働くことになりました。

創業は1954年(昭和29年)。かつては大阪と佐賀の二拠点体制で、主にテーラードジャケットの縫製を手がけていました。
当時はバブル景気の影響もあって、たくさんの注文が入り、大量生産が求められる時代でした。
しかし、バブルが崩壊すると一気に状況が変わります。
経済はデフレに向かい、モノの値段が下がる中で、企業はコストを削減することを最優先に考えるようになりました。
製造コスト、特に工賃をできるだけ安くしたいという動きが強まり、アパレル業界では、より安く製品を作ってくれる工場を求めて、生産拠点を次々に中国へ移していったのです。
その流れは容赦なくハセガワにも襲いかかってきました。
主要取引先であったA社(某ロードサイド型量販店)がバブル崩壊後に中国生産へ移行したことにより、ハセガワの7割を占めていた受注はすべて消え去ったのです。
日本中の工場が次々と倒れる中、ハセガワも大阪の工場と土地を売却。残る佐賀工場も閉鎖するかどうかという状況。
そんな苦境の中、立ち上がったのが二代目社長でした。
工場閉鎖の危機!? 2代目社長の逆転劇
まずは何よりも工場を稼働させなければなりません。
社長は自ら現場に出て、飛び込みで営業を始めました。
何度も何度も取引先に足を運び、ようやく少しずつ仕事をもらえるようになったのです。
その間にも、まわりの縫製工場は次々と廃業していきました。
「次は自分たちかもしれない」——そんな不安を抱えながらも、社長は決して諦めませんでした。
それはすべて、家族、そして100人を超える従業員とその暮らしを守るためでした。

苦境が生んだ進化
厳しい状況の中で、なぜハセガワは生き残ることができたのか——。
その理由を社長に尋ねると、こう答えてくれました。
「仕事を選べるような状況ではなかった。どんな生地でも、どんな仕様でも、とにかくすべて受ける。手間のかかる複雑なデザインでも、断ることはしなかった」
当時は、目の前の仕事を一つでも多くこなすことが最優先でした。選り好みできる余裕はなかったのです。
しかし、その姿勢が結果として、工場の技術向上につながっていきました。
現場で対応していたのは、ほかでもない職人たち。さまざまな仕様に取り組むうちに、一人ひとりのスキルが自然と磨かれ、工場全体のレベルが引き上げられていきました。
加えて、あらゆる種類の仕事を受ける中で、生産体制そのものも見直す必要が出てきました。
ハセガワはもともとテーラードジャケットを主力としていましたが、受ける仕事の中にはカジュアルなジャケットも多く含まれていました。
とはいえ、当時は工場を拡張する余裕もなく、新たなラインを設けることも難しかったため、全ての製品を既存のテーラード用ライン一本で生産する方針が取られました。
これは、通常の縫製工場では考えにくい構造です。
一般的には、テーラードとカジュアルでラインを分けるのが常識とされています。しかしハセガワでは、試行錯誤を重ねながら、すべてを一本のラインで対応できる独自の生産システムを築き上げていったのです。

逆境を縫い上げた縫製工場
この柔軟な対応体制のおかげで、今ではジャージー素材のジャケットなど、カジュアルな素材を使ったテーラード製品も縫えるようになりました。
もともとは“選んでいられない”という状況から始めたやり方でしたが、偶然にもファッションのトレンドと重なり、それが他社との差別化につながりました。結果的に、ハセガワが生き残る大きな力になったのです。
現在では、リスクの分散にもきちんと取り組んでいます。
かつてはA社からの注文が全体の大半を占めていたため、その取引がなくなった際に大きな打撃を受けました。その反省を踏まえ、今では特定の取引先に依存せず、複数のブランドからバランスよく仕事を受けるようにしています。
今では誰もが知っている有名ブランドのコートやジャケットも手がけており、スポーツ選手や芸能人がテレビ番組で着用する衣装、高級ホテルや鉄道会社の制服なども製作しています。
もしかしたら、読者の皆さんも知らないうちに、どこかでハセガワの製品を目にしているかもしれません。





モノづくりのバトンを、次へ
荒川が初めてハセガワの現場を見たとき、真っ先に感じたのは——
「こんな工場、今まで見たことがない」
という驚きでした。
たった一本の生産ラインで、テーラードからカジュアルまで、さまざまな仕様の製品を柔軟に縫い上げている。その現場の動きの見事さに、荒川は強い感銘を受けたのです。
この工場には、まだまだ可能性がある——そう確信した荒川は、「この素晴らしい現場をもっと良くしたい」という想いを抱くようになりました。
そして何より、ここには社長が必死に繋いできた“メイド・イン・ジャパン”の技術と誇りが息づいている。
それを次の世代へ、さらに高めて受け継いでいく。それが自分の役割だと、モノづくりに生きる人間として、荒川は強く感じたのです。
つづく